2016年9月24日土曜日

ランスのノートルダム大聖堂 ⑦-②

訪問世界遺産

エコール・ド・パリを代表する世界に知られる画家藤田嗣治は1886年軍医の次男として東京にうまれ、幼くして母を亡くしました。その後東京美術学校(現芸大)に入り、24歳のとき卒業写生旅行
で千葉の房州に行き、そこで寄宿舎の舎監をしていた鴇田登美子と知り合い、1912年、26歳で結婚しました。1939年単身パリに渡り、同じ派の仲間ユトリロ、モディリアーニ、シャガールなどと極めて自由な生活の中藤田の名は世界に知られていきました。
 日本人にとって知っておきたい転機は戦後1950年代に最も親密で彼を支えていたシャンパンメーカー・GHマムのレネ・ラルー社長との出会いであります。彼は様々なアドバイスをし、1955年には
フランス国籍を、さらに73才の1959にはフランス歴代の王の戴冠式で有名なランスの大聖堂(カテドラル)で最後の夫人君代さんと共にカトリックの洗礼の教父を引き受けました。その時いただいたクリスチャンネーム「レオナール」が以降。レーナール・フジタと名乗るきっかけとなりました。その際に彼は「聖母子像」を献上しております。
 フジタは小さな教会の建設を相談し、ルネ・ラルーはマム社の敷地の一角を提供しました。
子の小さな教会の一切の装飾を自ら設計し、完成させましたが、窓のない薄暗い内部での泊まり込んでのフレスコ画の製作は年老いた彼には大きな負担でもありました。
 1966年に完成後体調を崩した彼はその2年後1968年1月29日スイス・チューリッヒの病院で昇天しました。82才でした。2月3日には洗礼を受けたランスの大聖堂で盛大は葬儀が行われ、7日には
自らが製作した教会に埋葬されました。教会は「シャペル・フジタ」としてランス市に寄贈され、今では見学が可能です。フレスコ画の群衆の中にルネ・ラルーと藤田自身が描かれています。


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