2016年12月14日水曜日

ユングフラウヨッホとアレッチ・ビーチ・ホルン ⑨ suisse

訪問世界遺産

ヨーロッパ最高峰ユングフラウヨッホ(4158m)は高所恐怖症でなければ一度は行って見てみたい、いわゆるてっぺんです。インターラーケンからグリンデルワルド、そしてクライネ・シャデック駅で乗り換える。この乗換駅からは有名なアイガー(3970m)の北壁、メンヒ(4099m)が(天気が良ければ)目の前に広がる。鉄道はトンネルが多いが終点のユングフラウヨッホ駅もトンネルのなかです。ここはTop of Europeと呼ばれるヨーロッパで最も標高の高い駅です。エレベーターでスフィンクス展望台に出ると4158mのユングフラウヨッホは目の前、反対側には最長のアレッチ氷河の雄大な姿が見渡せる。
夏は特に観光客が多く混雑するが手前ではスキーができる。宿はないがレストランはきちんとしている。写真は最初の時にスキーをしてみたものですが、数年前にはこのレストランでワインを飲みすぎて、高山病?かふらふらになってしまった。

2016年10月29日土曜日

ラヴォーのぶどう畑 ⑧ スイス

訪問世界遺産

スイスには1972年来7,8回訪れている。西部のフランス語圏にはレマン湖がある。名峰マッターホルンに源をもつローヌ川はこの湖の東から入り西に出て、フランスへと流れ、最後にマルセイユ近くで地中海に流れ出る長江で知られる。観光立国スイスは物価が高いのが気になるがどこでも満足できる。ジュネーヴはシンボルの湖面から100mに立ち上る噴水(jet d'eau)のほかショッピングはもとより、ホテル、レストランのレベルも高い。周辺にはぶどう畑やワイナリーもある。ブルゴーニュに近いせいもあり、シャルドネ、ピノ・ノワールなども作られている。
 レマン湖の北側一帯は斜面でぶどう畑が広がっている。スイスワインといえば白の「シャスラ」が有名で赤は「ピノ・ノワール」となる。ローザンヌまではなだらかな傾斜で女性的な優しいワインとなる。
ローザンヌの街は私のようなホテルマンにとっては夢の頂点の感がある。ここには言わずと知れた
世界最高のホテル学校「エコール・オテリエ・ド・ローザンヌ(Ecole hoterie de Lausanne)がある。その東は斜面が急こう配になり、上は林で覆われ、ブルゴーニュやドイツのラインガウのように北風や霜よけ対策が取られている。道路や鉄道は殆ど水際に近い。ここがラヴォーと言われる地区でスイス最高峰のシャスラを産する。辛口でミネラルに富み若くして飲めて、熟成にも耐える。機会を作って湖で取れる「Perch」と呼ばれる白身の小魚のフライを味わってほしい。またはチーズを溶かしてポテトと食べる「ラクレット」も白で味わう。知られたワインはヴィレット(Villette)、エペッス(Epesses)、デザレ(Dezaley)、カラマン(Calamin)、サン・サフォラン(St-Saphorin)など。天気のいい日に対岸のフランスアルプスを望みながら至福の時を過ごしてください。


2016年9月24日土曜日

ランスのノートルダム大聖堂 ⑦-②

訪問世界遺産

エコール・ド・パリを代表する世界に知られる画家藤田嗣治は1886年軍医の次男として東京にうまれ、幼くして母を亡くしました。その後東京美術学校(現芸大)に入り、24歳のとき卒業写生旅行
で千葉の房州に行き、そこで寄宿舎の舎監をしていた鴇田登美子と知り合い、1912年、26歳で結婚しました。1939年単身パリに渡り、同じ派の仲間ユトリロ、モディリアーニ、シャガールなどと極めて自由な生活の中藤田の名は世界に知られていきました。
 日本人にとって知っておきたい転機は戦後1950年代に最も親密で彼を支えていたシャンパンメーカー・GHマムのレネ・ラルー社長との出会いであります。彼は様々なアドバイスをし、1955年には
フランス国籍を、さらに73才の1959にはフランス歴代の王の戴冠式で有名なランスの大聖堂(カテドラル)で最後の夫人君代さんと共にカトリックの洗礼の教父を引き受けました。その時いただいたクリスチャンネーム「レオナール」が以降。レーナール・フジタと名乗るきっかけとなりました。その際に彼は「聖母子像」を献上しております。
 フジタは小さな教会の建設を相談し、ルネ・ラルーはマム社の敷地の一角を提供しました。
子の小さな教会の一切の装飾を自ら設計し、完成させましたが、窓のない薄暗い内部での泊まり込んでのフレスコ画の製作は年老いた彼には大きな負担でもありました。
 1966年に完成後体調を崩した彼はその2年後1968年1月29日スイス・チューリッヒの病院で昇天しました。82才でした。2月3日には洗礼を受けたランスの大聖堂で盛大は葬儀が行われ、7日には
自らが製作した教会に埋葬されました。教会は「シャペル・フジタ」としてランス市に寄贈され、今では見学が可能です。フレスコ画の群衆の中にルネ・ラルーと藤田自身が描かれています。


2016年8月17日水曜日

ランスのノートルダム大聖堂、サンレミ旧大修道院と宮殿 ⑦

訪問世界遺産


ランス40年行き来る故郷のような身近
街のほぼ中央にどんと構えているのがノートルダム大聖堂(カテドラル)である。
その創建は401年と古いが、その後1211年から約100年をかけて再建された
ゴシック建築の代表的なものである。
 歴史的には496年にフランク王国初代の王クロヴィスが政治的とはいえ
ローマ・カトリックに改宗し洗礼を授け、その後816年のルイ1世から1825年の
シャルル10世までフランス歴代の王の戴冠式をしたことで知られる。
特に1429年ジャンヌ・ダルクによるシャルル7世のものが有名である。戴冠式は
塗油式とも言われ「神の超人的な力を国王に与える」とされる。
 建物には2300体以上の諸王の彫像がたっているが、入口左の「微笑みの
天使」(写真)や内部のステンドグラスは見逃すことができない。最奥の3枚は
改装されてマルク・シャガールによるシャンパンの製法が描かれている。
 建物右に隣接する「トー宮殿」は元大司教の公邸でカテドラルの宝物殿と
して見学できる。
  さらに南に少し行ったところにサン・レミ聖堂と元修道院がある。ここには
クロヴィスに洗礼を授けた司教サン・レミの遺体が安置されており、これから
Reimsの街の由来ともいわれる。修道院は博物館となっている。
フランスもカトリックもこのランスから始まった感がとれる。


2016年7月4日月曜日

シャンパーニュの丘陵群、家屋群、地下貯蔵庫群 ⑥シャンパーニュ

訪問世界遺産

シャンパーニュはなだらかな平原を意味する。昔は州として8県が含まれていたが
現在は5県がシャンパーニュ地方(La Champagne)として、有名なスパークリングワインの王様シャンパーニュ(Le Champagne)を造っている。しかしすべてが平原ではなく中心となる3地区の北から「モンターニュ・ド・ランス」は森も多いし、その南の「ヴァレ・ド・ラ・マルヌ」はセーヌ川の支流マルヌ川沿いの浅い谷である。そしてその南に広がる「コート・デ・ブラン」は白亜質の丘陵となっている。平原はタバコやビーツなどの畑より、「ランスからシャンパン・ルート」を選んで村々を通る約70kmの道のりに広がるぶどう畑は壮観で特にヴェルズネの風車(写真)
や今は3★のアッシエット・シャンプノワーズでランチもお薦め。
シャンパーニュのワインメーカーはランスとエペルネの町に2分されているがランスはローマ時代に街を作るために切り出した地下の採石場の空間があり、総延長約250kmにおよび今ではシャンパーニュに欠かせない地下貯蔵熟成庫となっている。大手メーカーとしてポメリー、マム、テタンジェ、パイパー・エドシックなど見学できる。

2016年6月13日月曜日

ストラスブールのグラン・ディル ⑤ アルザス

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 フランス東部にあるこの街は中世には東西の水陸交通の十字路として発達した。街を流れる
イル川は東でドイツの国境となる大河ラインの支流で、また西のマルヌ川と結びつける役をしている。ストラスブールの中心の旧市街で二股に分かれた中洲(パリのセーヌ川の中洲シテ島の大きなようなもの)でここを大きな島(Grande ile)と呼ぶ。特にプティット・フランスと呼ばれる一帯はかっては漁師、なめし皮職人などが多く暮らし中世の雰囲気が楽しめる。
 さらに見どころは11世紀の建造のあと火災にあい、12世紀から250年もの歳月をかけて作られた142mの高さを誇る尖塔のノートルダム大聖堂である。この地で取れる赤茶けた石は鉄分の含む砂岩でステンドグラスや天文時計も興味深い。
 昔は木材、絹、ワインで発展したため白壁に柱や梁の木材が露出した建物が多く残り、ドイツのような雰囲気もある。歴史的にはフランスであったが第二次大戦が勃発するとドイツに占有され、終戦でまた連合軍フランスが取り戻した土地でもある。
 ワイン産地はここから西のヴォージュ山脈を見ながら細長く南に伸びており、白ワインとソフトな発泡酒「クレマン」が主である。ドイツと同じぶどう品種が多いが、味わいは異なり、辛口仕上げなところがゲルマンとローマンの民族の違いといえよう。
 歴史的にも二国文化が融合しているところが特徴といえる。現在も十字路としての利便性でリュクセンブルクと共にEUの多くの施設を有し、またホテルやレストランも質が高い。
 グルメにお薦めはブールイーゼルやクロコディル、少し足を延ばしてオーベルジュ・ド・リルなどの
レストラン、料理はフォワグラのテリーヌ、シュークルート、チーズならウォッシュタイプのミュンステール など・・・

2016年5月25日水曜日

ヴォーヴァンの防衛施設群 ④ ブザンソン

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フランス最初の緑の都市ブザンソンはフランシュ・コンテ地域の首府である。ここはガロ・ロマン時代以降いつの時代も要所として機能を果たしてきた。それは地形にありドゥー川が大きく蛇行し,ちょうど巾着のような形をし、その入り口は100メートルほどの崖となっている。この崖の上に17世紀ルイ14世のもと築城の名手と言われたヴォーヴァンが20年余りをかけて城塞都市(シタデル)を造った。これは彼が造った防衛施設で最も評価が高い。上には現在は博物館、動物園などがあるが登ってみる価値があり、大きく円を描いて流れる川の中の旧市街を一望できる。ほか市壁やグリフォン砦がある。
 この町はスイス国境に近いこともあり、古くから時計産業が盛んで1860年に設置されたサン・ジャン大聖堂の天文時計は一見の価値がある。ちなみに現存の[LIP」という時計メーカーはここである。
 文化面では小説家のヴィクトル・ユーゴーの生家は旧市内にある。また世界的に有名な国際指揮者コンクールは1959年小沢征爾さんが優勝以来、佐渡裕さんなど多くの日本人の優勝者が出ている。大学は皇太子妃雅子様も外務省時代に夏季講座を受けていると聞いている。

2016年5月17日火曜日

ブルゴーニュ地域圏 ③ー⑥ シャブリ

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ブルゴーニュを代表するワインはシャルドネという白ぶどうから作る辛口タイプでシャブリは
その代表的なものです。
 シャブリは飛び地となっているワイン産地でパリに最も近いブルゴーニュの小さな村です。
このワインが人気となったのはその土壌にあります。「キンメリジャン」と呼ばれる貝化石でジュラ後期のもので、昔はここが海だったことがわかります。イギリスの南イングランドにキンメリッジ湾というところがあり、これはイギリスがヨーロッパ大陸から分かれたことを意味します。
 同じ土壌はフランスでも三日月状に見られ、ワインではシャンパーニュ、シャブリそしてロワール河上流のサンセール、プイイ・フメです。(ぶどう畑で見つけたその化石をどこかにしまい忘れており探してみます・)

2016年5月3日火曜日

ブルゴーニュ地域圏③ー⑤ ガストロノミー

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フランス革命により職を失った多くの人々、取り分け料理人は田舎に戻った後故郷でAuberge(旅籠)やRestaurantを始めている。食材に恵まれているブルゴーニュはその後の共和制下でパリとニースを結ぶ現在のN6号街道が郵便と旅で発達し、このよな旅籠やレストランが発達した。ぶどう畑の多いこの地方ではぶどうの葉を喰うエスカルゴの他にシャロレ種の牛、ブレスのチキンなどが今では代表的な食材となっている。ミシュランはタイヤのメーカーであるがホテル・レストランの格付けのほうで有名となりブルゴーニュだけでもジョワニーのコート・サン・ジャック、ソーリューのベルナール・ロワゾー(コート・ドール)、シャニーのラムロワーズなどのほか当時の面影を残すPosteと名の付くホテル&レストランも多い。 こんにちはオートルートがあるので旅も車で楽々できるが
今でもVoiture(車)をBagnole(馬車)と呼ぶ人も多い。
Bourgogne というナンバープレートを付けてみました。

2016年4月17日日曜日

ブルゴーニュの地域圏 ③ー④ ディジョン

訪問世界遺産

百年戦争の14から15世紀にはヨーロッパ最強の国として黄金時代を築いた旧ブrゴーニュ公国の
首都ディジョンは今ではフランス人が最も住みたい芸術と食の町である。名産品として有名なディジョン・マスタードがある。第二次大戦後低迷の続いた特産のカシス・リキュール(Creme de Cassis)と白ワインの販売に頭を悩ましていたキール市長は自ら考え出したのが辛口の白アリゴテにカシス・リキュールを加えた甘口のカクテルである。これが市長の名を取った「Kir」と呼ばれる。カシスの量は好みで甘口ややや甘口にできるが、白ワインはアリゴテが正統派であり、他のワインを使うものは単に「ブラン・カシス」と区別している。その後キール・ロワイアルやキール・アンぺリアルなどに派生して今では世界中で知られるようになった。

2016年4月11日月曜日

ブルゴーニュの地域圏 ③-③ ボーヌの旧市街

訪問世界遺産

ブルゴーニュの地域圏 ③-③ ボーヌの旧市街
 石垣時には堀と石垣に囲まれた旧市街は歩いてどこにでも行ける大きさでこの人口(約3万)がちょうどいい感じがする。もちろん新しいものが入ってくるのは何処でも変わらないが古いものがいつでも対等に存在するところが好きだ。
 例えばフランスでは新聞は配達しないのでカフェ・バーに毎朝買に行く。どこの家でもおじいちゃんがその役で出かけて行っては知り合いと長話が日課となる。新聞は今では1ユーロと少しだが釣銭で決まって飲むのが「un petit blanc](白の地ワイン1杯)である。タバコはグロワーズ、これがブルギニヨン、いやボーノワの魅力である。文化とは人が創るものなんだ。


2016年4月7日木曜日

③‐② ワインの王

訪問世界遺産

③‐② ワインの王 ブルゴーニュの中心 ボーヌは銘醸蔵で働いていた街であり、その後も何度も訪ねる第二の故郷でもある。ローマ帝国が交通の要所として開いて7世紀には街の回りに城壁が作られ、12世紀に現在の石造りになった。ワインに関する多くのポイントがあるが、まず目に留まるのが1443年にニコラ・ロランが建てた施療院(Hotel-Dieu)でオスピス・ド・ボーヌとして1959年まで使われていた。中庭に面した屋根は独特の幾何学模様で有名である。見学の際は28のベッドでミサができる大ホールの他厨房や「最後の審判」のタペストリを忘れづに、また寄贈された多くのぶどう畑を持ち、現在では年1回行われるオークションはピエスと呼ばれる小樽単位で取引され、現物は後渡しの先物取引でその年のブルゴーニュの価格に基盤となるのもでバイヤーしか入れないが世界中から人が集まるので知られる。ワインは全てHospice de Beauneの文字とマークが入ったラベルが使われる。
 最後にこの地方の料理はコック・オー・ヴァン(鶏肉の赤ワイン煮)、ブッフ・ブルギニヨン(牛肉の赤ワイン煮)、エスカルゴなどである。




2016年3月11日金曜日

③ その1教会と修道院

訪問済世界遺産
③ブルゴーニュの地域圏(2015) その1教会と修道院
  修道院とワインは古くから深いつながりがあります。少しでもワインの勉強をした人ならベネディクト派としてドイツのヨハニスベルクやシャンパーニュのドン・ペリニヨンが浮かびます。元々このベネディクト派はイタリアのローマの南モンテカッシーノの529年にできたのが始まりです。
 その後ブルゴーニュのマコンの西の山中にできたのがクリュニー修道院(910 年)です。クリュニー派と言われます。ワインファンでもよほど時間んと好奇心がなければ、ここまでは足を延ばせません。ここはローマのサン・ピエトロ教会ができるまでは修道士1万人を抱えた世界最大の規模を誇りました。施設は殆どが1791年のフランス革命期に破壊され、今では南袖廊と62mの鐘楼が残るだけです。この二つは黒の僧衣です。
 その後ブルゴーニュのフォントネーにできたのがシトー派(1118年)です。白の僧衣です。よく知られているのがクロ・ヴージョで修道院に寄贈されたぶどう畑を管理し、ワインを作る修道士の館として残るシャトーは今ではシュヴァリエ・ド・タートヴァンと称するブルゴーニュワインの販売・宣伝に貢献した人々を表彰する団体はあまりにも有名です。建築に興味のある方ならこれらのロマネスク様式とのちに出てくるゴシック様式に注視するとよいでしょう。



  

2016年2月23日火曜日

② アヴィニヨン歴史地区

訪問済世界遺産
②アヴィニヨン歴史地区法王庁宮殿司教関連建物群アヴィニヨン橋(1995)
  ローマ法王庁が極めて政治的にフランスに強制移転した時期がある。1309年である。それまでもフランス出の法王が即位したことはあるが、それから70年間7人のフランス出の法王が続いた。
極めて窓の少ない法王庁と流れるローヌ大河にかかり今は半分しか現存していないアヴィニヨン橋は歌でも有名で時間をかけてみることをお勧めするほか、ヨハネス22世が法王の時に建てた
新しい離宮とぶどう畑は今や「シャトーヌフ・デュ・パープ」という名前で現存する。白と赤があり
中でも13種のぶどうを使うことが認められている赤はフルボディで長期熟成に耐え、ワインファンも
多い。畑はその昔スイスのマッターホルンの源を発するローヌ川の下流洲で丸く削られた石がゴロゴロしている。


2016年2月5日金曜日

① バチカン市国(1980登録)

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   ローマの町の中にある皇居よりも小さな土地は聖ペテロの墓所と言われ8世紀から19世紀まで法王庁拡大された後様々な歴史を経て1929年にイタリアから離れたれっきとした国。キリスト教カトリックの総本山として現在は第266代のフランシスコ法王が即位されている。
 教徒だけにとどまらず世界から多くの観光客が来ていつでも長い列をなす。この大理石の中に
 自分を置くことで教徒ならずとも正義に基づく平和提唱を心に止めることに意義がある。
 帰る前に向かって左に居る衛兵はスイスからの派兵である。

観光って

最近、大勢の中国からの観光客が来てます。爆買いとかマナーが悪いなど色々不評な面が取りだたされています。でも似たような現象は日本でも昭和30年代に同じような時期があったのではないでしょうか?沖縄が返還されて、500ドルまでという制限があったにしろ海外旅行ができるようになり団体で出かけて腹巻から現ナマを出して振る舞っていたのが思い出されます。そうゆう意味で
今受け入れ側も少し寛容になってもいいと思います(個人的には)。
 さて、アベノミクスの地方創生でどこでも観光資源の見直しを迫られるところです。
日本人の旅行でいえばその形はseeからdoに変化しbeに変わってきて大分なります。そんなことを考えるために今まで周ってきた世界遺産からまずヨーロッパの40~50を気ままに書き下ろして
見たいと考えてます。